【書評】『リスクと生きる、死者と生きる』 石戸諭

「生き残った人は、どう語り継いでいくかという問いの過程を、生きている」。東日本大震災原発事故の取材手記。
 
筆者は震災直後から三陸沿岸の取材に関わり、原発事故の取材の一環でチェルノブイリも訪れている。筆者も語るように、複雑な感情を、例えば「悲しみ」といったシンプルな言葉で伝えようとすると、必ずそこからこぼれ落ちる何かがある。また「被災者」とは「福島の人」といった大きすぎる主語は、それを伝える人の主張がどうしても貼りついてしまう。ではその中での報道の仕事とは何なのか。記者として何を伝えるべきか。
 
この本には、明確な主張も、的確な指針も、シンプルな結論も書かれているわけではない。「分かりやすさ」が求められる昨今の報道。膨大な情報を乱暴に要約して、大きすぎる感情を四捨五入して、短いニュースはつくられる。それが「伝える」という作業なのかもしれない。だが筆者はそこに疑問を抱く。「分かりやすさ」を排除することは、ある意味記者としての自己矛盾だと思う。だがそれでもなお、筆者はこの本を書くことを選んだ。簡単に読める本でもなければ、単純に楽しめる本でもない。だがこの本を読んで感じる「もやもや感」こそが、筆者が取材を通じて感じ続けてきたことであり、読者と共有したいと願う感情なのではないだろうか。いちおし

【書評】『「働き方」の教科書』 出口治明

当代屈指の教養人である筆者による、仕事と人生の楽しみ方の指南書。
 
日本人の年間労働時間は、多く見積もっても2000時間。1年間は8760時間だから、仕事はその23%に過ぎない。だからこそ失敗を恐れず、楽しんで仕事をすべきである。驚異的な読書量と、幅広い知識量と、膨大な旅の経験から導かれる言葉の数々は、違和感なく心に響くものばかり。仕事とどう付き合っていくか、仕事から何を学ぶべきか。20代から50代まで、各年代ごとにすべき仕事と、学ぶべき内容は必見であると思う。
 
自分もかくありたい、と強く思わせてくれる一冊。抽象的な話から具体的な話まで、マクロからミクロまで、望遠鏡と顕微鏡を兼ね備えたような筆者の引き出しの多さには驚嘆させられる。教養のある人物とは、知恵のある人物とは、目標とすべき人物とは。その全てを兼ね備えた筆者の大きさに圧倒される一冊。いちおし

【書評】『菊と刀』 ルース・ベネディクト

戦時中の日本人研究から生まれた、日本人論の金字塔。
 
筆者は米国で生まれ育ち、日本を訪れたことがない。また筆者が取材した先はほとんどが日系二世であり、ごく間接的にしか日本に触れたことがない人物である。そのためか、基本的なところでの誤謬が散見される。だが「国民的差異の組織だった研究を行うためには、精神の強靭さとともに、ある程度の寛容さが必要である」との筆者の言葉通り、それらの誤謬を無視すれば、驚くべきほど豊潤な日本人論を見ることが出来る。軍艦や大砲が「日本精神」の象徴となった理由、日本人が華僑のような氏族組織を発展させなかった理由、社畜文化を生み出したメンタリティ、「すみません」が多用される理由、「義理」と「義務」の違い、日本の映画でハッピーエンドが少ない理由、などなど。日本人ですら気づかない、日本人であるからこそ気づけない、日本文化の様々な特性を浮き彫りにする一冊。70年も前に書かれたとは思えないほどの瑞々しさで、日本人の内面を暴き出す一冊。おすすめ

【書評】『ヒルビリー・エレジー』 J・D・ヴァンス

「人々は、富める者と貧しき者、教育を受けた者と受けていない者、上流階層と労働者階層というように、大きく二つのグループに分けられ、ますます違う世界を生きるようになっている」。そう語る筆者による、ラスト・ベルトの真実。
 
筆者はラスト・ベルト(さびついた工業地帯)で生まれ、育った。そこから筆者は多くの幸運と努力により、イエール大学ロースクールを卒業し、現在は投資会社の社長を務める、アメリカンドリームの体現者である。だがこの本は、そんな華やかなイメージとは裏腹に、淡々と語るようにつづられている。筆者自身がラスト・ベルトで経験したこと、そこからいかに抜け出したかを中心に語られている。薬物のせいで亡くなる人々、繰り返される離婚と再婚、喧嘩っ早い親戚、軍隊への志願、仕事も希望も失われた地方都市。筆者が「金を使って貧困へと向かっていく」と述べるように、完全に合理性を欠いた世界である。それとは対照的な、アイビーリーグでの生活。ほかの学生から兵士への悪意に満ちたイメージを聞かされるエピソードや、テーブルマナーが全く分からずに困惑するエピソードは、「ヒルビリー」と「WASP」の間の大きな断絶を物語っていると思う。全米中の、世界中の良識が驚いたトランプ大統領の誕生は、この断絶がもたらしたといっても過言ではない。アメリカの繁栄から取り残された、疲弊するラスト・ベルト。筆者はどうやってそこから抜け出せたのか、おそらく日本の貧困解決へのヒントも見いだせる一冊。いちおし

【書評】 『フンボルトの冒険』 アンドレア・ウルフ

フンボルトと数日ともに過ごすのは、数年生きるのと変わらない」そうゲーテに評された男、アレクサンダー・フォン・フンボルト。今日の我々の自然観を創った人物の伝記。
 
フンボルトがいなければ、大陸移動説も、進化論も、『沈黙の春』も、生態系理論も、生まれてこなかった。1769年というナポレオン・ボナパルトと同じ年に生まれ、ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテを生涯の友とし、トーマス・ジェファーソンに感嘆され、シモン・ボリバルと交わり、チャールズ・ダーウィンに影響を与えた男。科学者でありながら、書斎で思索や書物と交わるだけの人物ではない。南米のアマゾン奥地に、ウラル山脈からアルタイ山脈までのロシアに、調査のための大冒険を行う。科学界の巨人が得たのは「地球は一つの生命である」という、「生命の綱」理論だった。
 
あまりにスケールの大きすぎる人物であり、現在の尺度ではとうてい測りきれない人物である。科学が専門領域に細分化される前の最後の博識家であり、彼の唱えた理論がいまや「常識」になっているからこそ、多くの人から忘れ去られている人物でもある。19世紀前半という疾風怒濤の時代、縦横無尽に世界を駆け回った人物の生涯は、驚きと大興奮に満ちている。おすすめ

【書評】『魔女の1ダース』 米原万里

「同じ物事や現象に対してさえ、異なる歴史を歩んだ社会集団によって、捉え方や意味付けが180度変わってしまう」。通訳として様々な文化の懸け橋となってきた筆者。そんな筆者が語る、自分の常識に囚われない生き方について。
 
1ダースは12個。これは我々の世界の「常識」である。だが魔女の世界では、1ダースは13個というのが「常識」になる。見慣れた風景の中に異分子が混じることによって、見えていなかったものが、見えてくる。自分たちが当然と思っている「常識」も、ところ変われば「非常識」になる。筆者が通訳として経験した、あすいは通訳仲間が経験した様々な「異文化交流」から、我々の「常識」に冷や水を浴びせる一冊。おすすめ

【書評】『あなたの脳のはなし』 デイヴィッド・イーグルマン

脳科学の世界的権威が語る、脳と我々の意識の関係について。
 
われわれ人間は、生まれたときは無力である。歩けるようになるまで1年、考え方を表明できるようになるまでさらに2年、自力で生きていけるようになるまでさらに何年もかかる。野生動物はそうはいかない。イルカは生まれてすぐ泳げるし、シマウマは生後45分で走ることが出来る。ではなぜ人間は、未熟なままで生まれてくるのだろうか。それは人間の脳が未完成のままで生まれてくるからだ。そして、そのことこそが人間の長所だと筆者は語る。これ以外にも、脳があなたの人となりを作る過程、記憶が信頼できない理由、決断を下すときの脳内のメカニズム、葛藤を感じる理由、有限な資産である意志力を補充する方法、などなど。知っているようでよく知らない、我々の脳についての興味深い話が満載の一冊。おすすめ