【書評】『ヒトラー(上)』 イアン・カーショー

 「ヒトラー独裁は、文化的で進んだ近代社会がごく短期間のうちにイデオロギー戦争、残虐な征服、ジェノサイドという野蛮の極みに向かいうることを警告している」。そう語るドイツ近代史研究の世界的権威である筆者による、ヒトラー研究の金字塔。
 
上巻は生誕からウィーン芸術大学の入試失敗、第一次世界大戦、ナチへの入党、権力掌握、ラインラント進駐まで。ヒトラーが演じた「指導者」とは何か、なぜワグナーに心酔したのか、19世紀末からドイツが抱えてきた課題とは、ヒトラーの演説が人々の心をとらえた理由、ヒトラーが読書家であった意味、などなど。膨大な資料の裏付け、緻密かつ大胆な分析、歴史全体を俯瞰する構想力、などの歴史書が歴史に残る要素を全て兼ね備えた本書は、ヒトラーを語るうえで欠かせない一冊である。上巻だけでも600ページを超え、質量ともに安易に読み解ける本ではない。だがポピュリズムと排外主義が跋扈する、今の時代にこそ読まれるべき一冊。おすすめ

【書評】『新鉄客商売 本気になって何が悪い』 唐池 恒二

「一つの夢がかなうということは、その夢が夢でなくなるということ。次なる夢を描かなければ組織は停滞してしまう」。そう語る筆者による、仕事を本気で楽しむための要諦。
 
筆者は長く国鉄からJR九州で働き、現在は代表取締役会長の地位にある。そのキャリアの中で、「ゆふいんの森」などのデザイン&ストーリー列車の運行、JR史上初の海外路線である高速船ビートルの就航、外食事業の立て直しと東京進出、九州新幹線の開業、世界一のクルーズトレイン「ななつ星in九州」の就航、悲願の株式上場、などなどの仕事を行ってきた。筆者の歩んできた歴史が、JR九州の挑戦の歴史と言っても過言ではない。そんな挑戦の数々から生まれた、仕事への至言、経営への理念、挑戦への信念は、読む者の心を熱くする。おすすめ

【書評】『美の考古学』 松木武彦

「太古から人が作る物にはどんな美が宿されてきたのか、人は物にどんな美を盛り込んできたのか」。そんな筆者の疑問から始まった、「美」を切り口にした考古学。
 
ホモ・サピエンスが初めて製作した道具である石斧から、縄文土器弥生土器の違い、縄文時代に土器の製作が盛んだった理由、古墳時代前方後円墳の日本史的意味、銅鐸と縄文土器の共通点、などなど。教科書で習ってきた古代の歴史が、「美」という切り口から見ることで、全く新しい側面を見せる。歴史の新しい楽しみ方を発見できるだけでなく、今に続く「美」の基準がいかに生まれたかを明らかにする一冊。おすすめ

【書評】『経済学者、待機児童ゼロに挑む』 鈴木亘

「待機児童問題をこのまま放置していては、日本の将来はありません」。そう語る筆者による、待機児童問題の背景と、その対策、改革の実行方法について。
 
3児の父として、16年にわたり日本各地や海外で様々な保育園を利用してきた筆者。経済学者として理論はもちろん、実際に保育園を利用する立場からも豊富な経験を重ねてきた筆者だからこそ語れる、待機児童問題の本質とは。また後半は、かつてあいりん地区の支援で鍛えた合意形成と政治力を発揮し、東京都顧問として改革に挑む激動の戦記。
 
絵に描いた「解決法」を提示するだけでなく、改革の現場でその解決法を実施するまでが描かれており、一冊で二度おいしい書である。また巻末の本人お決まり「必敗パターン」は、失敗の本質として興味深い。待機児童問題を語るうえで、必読の一冊。おすすめ

【書評】『ゾミア』 ジェームズ・C・スコット

「元々は平地で暮らし、何かの事情で山に移り住んだ人々の暮らしが、平地文明の本質を映し出す鏡になっている」。そう語る筆者による、山地民から見た国家論。
 
ゾミアとは、ベトナムからインド北東部にかけての山岳地帯のことで、250万平方キロメートルもの広大な土地と、1億人にも及ぶ多種の少数民族が住んでいる。山岳地帯ゆえに、いまだに国民国家に統合されていない人々も多数存在する。この地域を研究することで、国家形成についてのもう一つの視点が得られる。中央集権型で、人口密集型の平地国家。平等主義で流動的な社会構造を持つ山地民。この2つの対比をベースに、人類がいかに国家を生み出し、いかに国家を築いてきたかについての、重厚かつ壮大な物語。
 
日本においても、平家の落人伝説やマタギなど、山地民はある者は戦に敗れ、ある者は自らの選択として、平地に位置する中央集権国家から逃れ、山地に自分たちの「独立国」を形成していた。世界的に見ても、ゾミアをはじめジプシー、コサックなどの強権国家から押し出されてきた人々は枚挙にいとまがない。これらの「語られることのない」人々の歴史は、我々が学校で習ってきた平地の集権国家の歴史は、コインの裏表であると思う。原始的な野蛮人という、山地民のステレオタイプを打ち破る一冊であり、人類史の新たな地平を拓く挑戦的な一冊。いちおし

【書評】『昭和天皇』 原武史

陸海軍大元帥として、戦争の責任者として、復興のシンボルとして、激動の時代を生きた昭和天皇を、宮中祭祀を中心に描いた意欲作。
 
昭和天皇の在位は62年の長きに及び、これに摂政時代も加えると67年にも及ぶ。これは歴代天皇の中では最長であり、世界的に見ても珍しい。時代が激変する中、天皇の役割も変化を余儀なくされた。戦前戦後と続けられた宮中祭祀、「御真影」の意味の変遷、父である大正天皇との違い、他の皇族との確執、などなど。各種資料から読み取れる、昭和天皇の真実とは。いまだ評価の定まらぬ天皇の実像に迫る一冊。おすすめ

【書評】『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』 高野秀行、清水克行

「ほんとうに面白い本を読んだとき、人は「誰かとこの本について語り合いたい」という強い欲求におそわれる」。そう語る筆者による、贅沢すぎる知の競演。
 
世界の辺境を旅するノンフィクション作家と、室町ブームの火付け役となった歴史学者。この二人が、同じ本を読み、その本について語り合う。神輿と山車の違い、スサノオマッカーサーの共通点、中世人が考えた「怠ける」ということ、土器の発展の歴史、弥生時代に稲作への移行が進んだ理由、古墳時代北朝鮮の共通点、などなど。一見何のつながりもない両者の専門だが、一流の知性同士がぶつかれば、そこには新たな知見が生まれる。読書の楽しさと、教養を得る喜びとを、存分に感じられる一冊。おすすめ